ストリート|道路空間
レポート
影山裕樹×高岡謙太郎×泉山塁威|人が集まる『あたらしい「路上」』をどうつくるか?
今年4月に刊行された、全国各地の路上活用の実践者の言葉を集めた『あたらしい「路上」のつくり方』の刊行記念トークショーが、7月に下北沢B&Bで開催されました。
登壇者は、同書籍の編著者の影山裕樹さん、野外フェスに関する記事を執筆した音楽ライターの高岡謙太郎さん、「ソトノバ」編集長の泉山塁威。なぜ“路上”に注目するのか? 公共空間の可能性はどこにあるのか? 様々な議論が飛び交い、平日にも関わらず満員御礼だったイベントの内容をお届けします。
カバー画像は、左から影山裕樹、泉山塁威、高岡謙太郎
ボトムアップな場のつくりかた
影山 今日はよろしくお願いします。まず、なぜ今回、公共空間ではなく“路上”と名付けられた本を出したのか、お話ししたいと思います。僕はもともと、「大人が作る秘密基地」だとか、「ローカルメディア」だとか未だ世間的にオーソライズされていないボトムアップな活動に関心があって、近年流行している公共空間の利活用というイシューを、“路上”という側面から考えてみたかったんです。
イントロでも書いたのですが、じゃあ公共空間活用、都市政策などトップダウンな議論でこぼれ落ちていると感じるのは何かというと、都市空間に存在する複数の属性を持ったコミュニティ同士の分断、という視点じゃないかと思っています。単純に金持ちと貧乏人で趣味が違いますよね。みんな自由意志で趣味嗜好を選んでいると漠然と考えているけど、実は自分が属する階層によって規定されている。
わかりやすい例で言えば銀座の泰明小学校がアルマーニの制服を採用するニュースもありましたが、そうして子供の頃から異なる階層の子供と接する機会をなくそうという力学が、保護者や学校側に生まれてしまう。無意識に価値観の合わない人とのコミュニケーションを避ける傾向があるのが現代社会なんじゃないかと思います。
本書の中で齋藤純一氏の『公共性』(岩波書店)を引き合いに出しているのですが、様々な思想、階級の人が分断された状況に公共性は存在しないわけです。むしろ異なる価値観の“間”に生起する空間が公共空間なんじゃないか、と。ですので、そういう異なるコミュニティに属する人々が共通の関心ごとのもと集う機会を編み出すのが、“路上”という実験場なのではないか。「賑わいをつくる」という視点だけではなく、分断されたコミュニティを一つの場所に集わせ、交流させる機会を作ることが今、求められているのではないかと思うんです。
高岡 ライターをしている高岡と申します。自分はもともとテクノなどのクラブミュージックが好きで、ライターの仕事をしつつ、取材だったり自分の趣味で国内外のフェスを回っています。本書で紹介させていただいたのは、愛知県豊田市で行われている「橋の下世界音楽祭」です。
橋の下世界音楽祭は豊田市駅からほど近い、大きな橋の下で行われているお祭りなんですけど、音楽フェスというより“お祭り”をベースにしているんですね。だから日本の老若男女に馴染みやすい。音楽だけじゃなくて和を意識した露店だとか、櫓でできたステージだとか。そのあたりが既存の音楽フェスとはちょっと違う。“お祭り”という様式を踏襲することで、地元の人とも仲良くやっていける枠組みになっているのが面白いなと思って、取材させていただきました。
橋の下世界音楽祭はまた、ドネーションで成り立っているところもすごいと思います。通常の商業フェスだと、入場料が1万円を超えて非常に高いぶん、お金をかけて海外アーティストを呼んだりできますよね。つまり最先端のパフォーマンスを見るために入場料を高額にする。一方、橋の下音楽祭は、あくまで“場”がありきで、イベントが育成していったコミュニティに縁のある方々が出演/出店して、その場を楽しんだら募金をする形式です。他にない場の雰囲気に引き寄せられてか、偶然有名なアーティストが登場したりする。まさに影山さんが言うように“ボトムアップ”で成り立っている稀有なフェスだと思います。
泉山 泉山と申します。専門が都市経営やエリアマネジメントで、経営的な視点で街の価値を高めていく手法を研究しています。また、新宿や池袋などのパブリックな屋外空間で社会実験を実際に行ったり、制度や仕組みをつくる仕事もしています。
僕は最近「パブリックライフ」という言葉をよく使っています。みなさん、普段もちろん自分の家や、学校や職場というセカンドプレイスの中で生活していると思うんですけど、都市という公共空間の中でもやっぱり生活をしてるわけですよね。居心地の良い空間を都市の中にもつくっていきたいという想いがあります。
風景にはいくつかのポイントがあると思います。例えば、芝生とか建築とか物的な空間がベースにあって、そこに椅子やテーブルといった場をしつらえるものがあることで、お気に入りの場所がつくれる。そこで食事したり休憩したりというアクティビティが365日行われるような場所を日本でもたくさんつくっていきたい。
アメリカの話ですけど、道路に小さな公園を作る「Park(ing) Day」というプロジェクトがあります。そこでもテーブルと椅子が仮設的にしつらえてあります。アメリカは車社会なので車も非常に多いんですけど、道路を人のためのものにしていきたいということで始まりました。そのうち、次第に自分のところもやりたいという声が全米で上がり、今では9月の第三金曜日は「Park(ing) Day」にしようという流れが生まれたんです。
日本はまだ行政の社会実験のような形でしか生まれていなくて、民間や沿道の主体性を引き出しているという点で、全然レベルが違うんですね。理想の“路上”はこういうところにあるんじゃないかと思っています。路上を自分たちの場所にする、そのためのアクションを積み上げていく必要性を感じています。
あえて人が多い都市の中で公共空間を生み出す。
影山 高岡さんが“お祭り”をベースにすると地元の人にとっても理解しやすいと言っていました。京都の地蔵盆の日はみんな道路を占拠しているから、道路交通法的にはグレーなわけじゃないですか。祭りの日は羽目を外してもいいじゃないか、という雰囲気が日本のお祭りには伝統的にあって、そこは逆に可能性があるんじゃないかと思いますが、泉山さんはどう思いますか?
泉山 地域の商店街とか町内会って、イベントやお祭りをすることで地域経済を活性化していこうという狙いがありますよね。これまで、警察も行政もそうした取り組みを応援していたところがある。それが年々引き継がれていって慣習化され、毎年のことだからいいだろう、という信頼関係が醸成されている。だから、僕らがいきなり何かやりたいと言ってダメでも町内会を通すと一発OKみたいなことがよくあります。
影山 なるほど。人が訪れ賑わいが生まれる、だから公共空間を活用しよう!という流れはわかるんですが、逆に人があまりいない場所でやる場合はどうなのでしょうか。音楽フェスなんかは広大な敷地が必要なので、都市のどまんなかではない場所を見つける必要がありますよね。
高岡 音を出すと近隣の苦情があるので、説明しやすいお祭りの形式にするか、近隣に許可取りをしなくていい山の中でやるしかないんですよね。ヘッドライナーとなる大物アーティストを呼ばなくてもコミュニティさえしっかりしていれば人は集まるので、友達を集めて山の中でレイヴをやるのも、路上というか野外の拡張の仕方のひとつではあるんです。とはいえそれはコミュニティの中での振る舞いになってしまうので、先ほどの意味での公共性は薄れてしまかもしれませんが。
泉山 人が歩いてない場所でいくら場所を使っても効果的じゃない。地方都市の場合は特に車社会で普段ショッピングセンター行ったりするので、まちなかに人が歩くことの政策とセットでパブリックスペースの活用をしないと、あんまり効果的じゃない気がします。
高岡 あえて開催の難しい都市の中でやるほうが、いろいろな出会いが生まれたり面白いことが起きる可能性が高いかもしれませんね。
誰でも公共空間は活用できるのか?
泉山 影山さんが、あえて“路上”というキーワードで公共空間を考えたのは面白いと思いました。まちづくりの世界って、基本的には行政とか地域の人と一緒に課題に取り組むためのツールとしてどうやって道路を使おうか、と考えることが多いんですよ。路上という場をそもそも個人の想いから考えてみよう、という視点は新鮮でした。
影山 僕も高岡さんもそうだと思うんですけれど、やっぱりカルチャーが好きなんですよね。でも今、単純に音楽とか映画というコンテンツだけで勝負できる時代ではなくなった。だから、その外側の体験のフレーム自体から考える人が増えてきました。ただ、その時に、コンテンツ消費にどっぷり使ってきた僕らのような人種は、映画祭やフェスを開催する時の法律とか条例とか難しい仕組みがわからないんですね。そういういわばど素人に向けて、どうすれば理想の風景を作れるか、という視点を提供したかった。多くの人は、公共空間を自分でどうこうできるものだとまだ思ってない。
泉山 そうですね。
影山 自分が観客としてどう体験できるかっていう感覚しかないから、まずそういう人の目を覚まさないと、社会がどんどん窮屈になっていくんじゃないかという危機感があるんです。
高岡 鑑賞者と主催者の間の溝は大きいですね。音楽イベントの場合でも、お客さんと運営者側で意識が全然違う。ホストとゲストの関係が交換可能にならないと、一般の人の意識は変わらない気がしますね。
泉山 いくら心地よい空間をつくったり社会実験を行っても、お客さんは楽しむという役割しか演じないんですよ。最近僕は「プレイスメイキング」ていう言葉を使うんですが、一人ひとりがそこの場所を好きになって、自分の場所だと思うようにならないといけないと思います。フェスってその瞬間の爆発力はあるけれど、年に何回も同じ場所で同じことできないじゃないですか。
高岡 イベントを起こすなら、その場所でずっと続いていくものが必要ってことですね。
泉山 はい。1回行ったら二度と行かないような場所って、ダメだと思うんです。愛着を育むために、一つは、訪れる頻度とか滞在時間をいかに上げていくかという視点が必要だと僕は思います。
影山 なぜ日本の都市空間では自分たちが暮らす場所が自分たちの場所だと感じる人が少ないのでしょうか。公園の禁止事項の多さを見ても、公共空間はお上が管理する場所だ、という意識が強いからでしょうか?
泉山 例えば、オープンカフェって海外には当たり前にあるじゃないですか。なんで日本に全然ないかっていうと、理由はいくつかあって、日本は規制の歴史があると思うんですよ。ホコ天や闇市を撤廃したり、新宿地下広場を通路に変えるために滞留していた学生運動を追い出したりとか、そうやって規制ができていったところがあるんです。
高岡 路上パフォーマンスは許可がないとできないじゃないですか。ああいうのも関係あるんですかね。
泉山 関係あると思いますね。それと、ネット社会からクレーム社会になってきたっていうのもありますね。クレームがどこにいくかっていうと、行政か警察にいくんですね。だからリスクを恐れてどんどん規制していく方に行っちゃう。
高岡 路上で何かするためには許可制にしていくしかないのが現状なんですね。
自分たちが暮らす場所を自分ごとにするために
影山 そういえば、今度中野サンプラザがなくなるんですけど、僕は中野区民だったので、ああいうのが一番許せないんですよ。
高岡 影山さんは愛着が湧いていたんですね。
影山 ピラミッドみたいな感じで育ったので。みんなが古くからの中野区民だったらそんな決定させないはずなんだけど、東京に住んでいる人ってほとんど外からやってきた人じゃないですか。地元の人たちの力が弱い。一方、関西に行くと自分たちの街は自分たちの街っていう意識が強い気がします。東京は地元の人が少ないから、どんどん大きな資本によって再開発されてしまう。それに対して抵抗できないし、住んでいる人も関心がない。そういう意味でいうと、地元民の多い地方都市のほうが、まだみんなが知らない面白い事例がいっぱいあると思います。
泉山 例えば横浜や大阪も地方都市だと思うんですけど、地元愛が強いですよね。東京の弱点はおっしゃるとおり、たまたま今だけそこに住んでいる人が多いということ。そういう意味では地方都市の方が可能性がありますよね。
高岡 僕もそう思います。大阪行った時に思ったんですけど、路上にたむろしている人がすごく多い。東京だとほとんどいないじゃないですか。
影山 今、東京にコンテンツがない。買い物に行くか仕事に行くか喫茶店に行くかしか選択肢がない。でも、余白を作っていく余地はあると思います。空き家も多いし。逆に地方は、めちゃくちゃロケーションが良い場所がたくさんある。そういうところに人が集まれるコンテンツを入れることで面白くなる可能性がありますよね。
泉山 もともと、路上や道路は行政のものではないはずです。昔は、子どもたちが道で遊んだり路上にお店が出ていました。道路や路上に対して、色んな人が関わっていく余地を作る必要性を感じます。今、ミズベリングなど河川とか水辺が盛り上がっているのは、そこがもともと誰も関与していない場所だったからですよね。それに対して手垢のついた道路って関わりにくいかもしれない。でも、そこに共感が生まれればもっと人が集まる場所はつくれるはず。そのために道路や街のルールをつくっていく。それが今の僕のモチベーションですね。
高岡 僕は単純に、今まで見たことない景色を見てぶち上がりたい。それがモチベーションです。既存の見慣れた景色ではもう、テンション上がらないし、コミュニティも生まれないし、新しい表現も生まれないと思います。できればこれからも自分たちの生きている世界で見たことないものを見続けていきたいですね。
これからの路上活用に向けて
ボトムアップ、トップダウン両面から公共空間の活用について考えた1時間半のトークショーは、この後も質問者から多数の質問が投げかけられました。今後、路上や道路の活用の仕方はどんどん増えて行くと考えられますが、ここで語られた内容が少しでも今後公共空間をつくっていこうとする人々の参考になれば幸いです。
テキスト:加藤千香士