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ストリート|道路空間

今こそ学びたい!旭川市50年間のストリート・マネジメント (前編)ー「公園のような街路」を生んだブレークスルー戦略

現在、ロンドンや香港など世界各地で、メインストリートを歩行者専用の道へと変えていく計画が進んでいます。これらの街では、新しいストリート像として、まるで公園のような、緑豊かなランドスケープや座り場があり、人々が憩うことができる通りを描いています。

実は、50年以上も前に前述のようなビジョンを示し、市民の応援を受けながら実現した日本の街があります。

それが今回の記事で注目する旭川市です。

50年前というと、1960年代。その当時は全国で、交通事故の急増が大問題となっていました。死者数が日清戦争での日本側戦死者数を上回る勢いだったため、この状況は「交通戦争」だと報道されていたほどです。

これに対して、車線を整備したり、ガードレールや歩道橋で車と歩行者の動線を分離するなど、自動車との折り合いをつけるような道づくりが主流でした。

前編では、そうした従来の方法をくつがえし、メインストリートを大胆に歩行者のための空間とすることを実現した、旭川市の戦略について紹介します。

街の南北をつなぐ動脈・平和通

まず、街の歴史を知ることで、旭川市が大胆なストリート施策をうった背景が見えてきます。

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中心市街地と平和通(全長約1,050m、幅員約20m)の位置(Drawing by Shino MIURA)

現在の旭川といえば、北海道観光の拠点。動物園、街なかを流れる河川や大雪山などの自然、ラーメンなどなど、様々な魅力を持っています。

一方で、街の歴史をたどると、旭川は「軍」のまちだったのです。

メインストリートの平和通も、もともとは旭川駅と、北の守りをあずかる北鎮部隊として有名な第7師団をつなぐ動脈でした。(第7師団は地図上の旭橋を越えた北側に移駐)

かつては師団通として親しまれ、市民は「銀ぶら」ならぬ、「団ぶら」を楽しみにして過ごしていました。

戦後は「平和通」と呼称が変わるだけでなく、北側からの人の流れを生んできた師団がなくなりましたが、それでも旭川市の地域経済のために、通り沿いの商店街を維持する必要がありました。

また、常盤公園が北海道開発大博覧会(1950年)で人口の3倍を上回る来場者を集めたり、現・旭川市庁舎が完成することで、北側エリアも一時、活気づきました。

しかし、スーパーマーケット業態の出現で既存の店舗が衰退したり、郊外の住まいが増えるなど、市民のライフスタイルが変わるのをきっかけに、通り全体の売上げが少しずつ落ちていたのです。

そこで、当時の市長・五十嵐広三さんが思いついたのが、歩いて買物を楽しめる「買物公園」というコンセプト。

自動車やバスが多く行き交う平和通の交通とインフラを抜本的に見直す」という方向性が、まちづくり10カ年計画の目玉の1つとして公開されました。

 

日本初の交通社会実験へ!

ストリートを歩いて楽しめる「買物公園」にするには、自動車が入らないことが前提でした。しかし、いざ実現するとなると、平和通ほどの規模の街路を歩行者に開く前例はありません!

五十嵐市長は、まず、元気な青年会議所や商店街の若手の協力を得ながら、省庁などの行政機関、そして学識経験者との情報交換を行いました。

議論や調査結果を反映して描かれた将来像は、『あなたのかいもの公園』という冊子となり、市民の関心を集めていきました。これには、多世代の市民が平和通を楽しむ姿、北側エリアの再開発のイメージなどが示されています。

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『あなたのかいもの公園』が示した将来の平和通(『あなたのかいもの公園』より)

一番のハードルは、道路管理者、交通管理者のほか、消防、陸運関係者との調整でした。平和通の一部は国の管轄だったため、強く反対されました。

また、一部の市民や商店主からも、バスの利便性に関するもっともなものから、「自動車の無い商店街はスラムのようだ」という半ば思い込みに近いものまで、懸念する動きもありました。

十分に調査を行っていてもあがる、こうした意見に対して、「実際に空間をつくり、見せるしかない!」ということで、社会実験を行うための企画会議が立ち上げられました。

社会実験を目的とした交通規制自体も、当時の法律では解釈がむずかしく、話し合いは難航します。商店街理事長の懸命の訴えにより、実施予定日直前にようやく合意をとることができ、徹夜で「買物公園」づくりを行いました。

市の職員みずからヒューム菅から仕立てた仮設の花壇や噴水を用意する、企業からベンチを提供してもらう、旭山動物園から動物をかりてくる・・・といった数々の工夫で、1街区あたり10~25万円程度と安価に抑えました。

最近の社会実験のように、洗練されたファニチャーで空間の質を高めるというより、縁日のような雰囲気で緑・座り場・遊び場の量をとにかく増やしていたことが、写真からうかがえます。

その結果、来街者96万人、市民からの手紙の9割が賛同するもの、という大成功を収めました。

実験へのイメージ、歩行者交通量、周辺幹線道路の交通量、駐車場、搬出入、商店街の意向に関する調査も丁寧に行われ、成功を裏付けたのでした。また、この調査の一部は、地元高校生らが担当しており、多様な人々が実験を支えていたことがわかります。

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12日間にわたる社会実験の様子(旭川市提供)

「歩きやすさ」と「旭川らしさ」を追求したデザインへ!

実験成功の勢いのまま、次は恒久化するためのハード整備の計画が進められました。整備にあたっては、整備費計6,000万円のコストを、旭川市と商店街の積立で折半しており、官民が一丸となって進められました。

これを換算すると、たった3,000円/㎡の投資で、30-45万/㎡の地価の街なかに、20,000㎡以上の自由に使えるオープンスペースを確保したことになります。

基本設計は、社会実験を視察し、そのアイデアに共感した上田篤さん(建築家・都市計画家、当時京都大学助教授)が担当しました。

上田さんは『日本都市論』(1968年)にて、欧米の広場とは異なる、消費と結びついた日本の「ひろば」や、近隣の生活の場となる「道」について考え方をまとめていました。

行政と商店街、双方の意見が交錯する中、「ひろば」や「道」に対して強い思いを持っていた上田さんが入ることで、歩行者空間としての質が確保されました。

そして、以下の3点に力を入れ、地元のレンガや植栽を組み合わせたストリートデザインが提案されました。

1)歩くことを楽しめる変化のある景観づくり

2)公園を思わせる憩いの場

3)旭川の地域性表現

このデザイン案に、寄付された彫刻・噴水と、地元が要望した遊具が配置され、まるで公園のようなストリートとして、平和通「買物公園」が1972年にオープンしたのでした。

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将来の再開発を想定した設計案スケッチ(『“買物公園”基本設計ノート -旭川モール』より)

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子ども連れ家族で賑わう平和通(『“買物公園”基本設計ノート -旭川モール』より)

街への大きなインパクト

完成した平和通は、商店街のモデルとして全国に広く知られることとなりました。「歩行者専用道路」が、道路法に規定されるようになったのも、旭川の取組みがきっかけです。

資金繰りの問題から、当初のデザイン案をすべて実現させることはできませんでしたが、完成直後の商店街の売上げは36%増え、1975年以降およそ10年間、駅側に大型店の進出が続くなど、整備による効果は目に見えて大きいものでした。

 

市長の次の一手:「買物公園」の理念をひろげたい!

日本のストリートのあり方まで変えた平和通ですが、五十嵐市長のすごいところは、さらに次の一手をうったことです。

ご本人の言葉をそのまま引用すると、

(平和通)買物公園づくりで一点突破して、市内のすべての道路に買物公園を考えた基本理念がおよぶべきであり、全面展開されねばならない。

道路を交通需要の目的から捉えるのではなくて、もっと多面的な市民生活とのかかわり方から捉えた上で、道路の性格づけをする。そしてその性格、機能に合わせた道路構造のいくつかのパターンを構想し、これを全市の道路網に当てはめてみる。

つまり、平和通「買物公園」の目指した道の姿を、市内全体の道路ネットワークに当てはめることにしたのです。この考え方は、筆者が以前取り上げた、ニューヨーク市プラザ・プログラムを彷彿とさせます。

早速、市民による「懇親会」と、行政・学識経験者による「懇話会」を設けて協議し、旭川市独自の『道路管理基準』を作成しました。これに沿って、平和通に交わる七条緑道を含む4つの通りを整備しました。

創る10年間から、次のフェーズへ

歩行者空間だけではなく、日本の社会実験のルーツまでもを創った旭川の10カ年を紹介しましたが、当然のことながら、こうした新しいストリートの管理や活用は誰も経験したことがないものでした。完成の後、マネジメントの試行錯誤が続きます。

後編では、平和通と中心市街地のその後と現在から、ストリート・マネジメントが持つ「力」と課題を読み解いていきます。

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整備から10年後の平和通の風景(『旭川市街の今昔-まちは生きている(上巻)』より)

主要参考文献

  1.  “買物公園”基本設計ノート -旭川モール〔設計・上田篤他〕,建築文化 (311), pp.119-124, 彰国社,1972
  2.  渡辺義雄: 旭川市街の今昔-まちは生きている(上巻),総北海, 1983
  3.  五十嵐広三,高橋芳郎:人間都市復権,大成出版社,1973

 

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